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父、泰治の足跡をたどり(東京大学)

平成21年5月7日(木)

 この日は[大阪市職員:大阪教育大学大学院生(診療放射線技師、鍼灸師)]と二人で父泰治(ヤスハル)が東京大学時代に過ごした熊本県出身学生のための学生寮、有斐学舎(ユウヒガクシャ)での友人、先の
日本弁護士連合会会長:平山正剛(セイゴウ)先生の事務所を訪れた。

 先生は我々の到着を待っておられた様子で、私たちが着くなり「よく来てくれました。あなた方のお父さんには本当にお世話になったんですよ。」と云って頂き、早速、父泰治の思い出話を語って頂きました。「あなた方のお父さんは有斐学舎の学生寮長を務められ、南側2階の一番日当たりが良い部屋に住んでおられました。私たちは大変お世話になったんですよ。」と、温和に優しく語りかけて下さいました。その後は、私たち家族が知らなかった若き日の父親の東京での生活の様子や友人関係の話を語って頂き、近々始まる”裁判員制度”の話や、先生が現在取り組まれている”日本CSR普及協会(企業倫理を考える活動)”の話を分かりやすく解説して頂いた。最後には夕食にまで誘って頂き有斐学舎120年の記念誌まで頂きました。

 この中には有斐学舎の大広間で凛として正座して写った父泰治の姿がありました。

          
 平山正剛先生、本当にありがとうございました。


元日本弁護士連合会会長、平山正剛先生とともに
(私、平山正剛先生、弟)H21,05,07

有斐学舎:ユウヒガクシャ》

 
明治十四年、細川家第十四代
細川護久候のご支援により作られた、熊本県出身学生のための東京寮であり、当時は細川邸の中にあった。ここに入るには入寮試験と面接があり、日本を代表する政治家や高級官僚、熊本県の要職者、その他数多くの著名人を輩出している。平山正剛先生もその一人で、先生は昨年まで日本の法曹界のリーダーを務められた方で、現在でも早稲田大学の監事や東海大学の評議員を兼務されている。


平成21年5月8日(金)


 次の日は、父泰治が”理工学への大志を抱き青春時代を過ごした東京大学”を訪ねた。正門より東大に入ると父親の話によく出ていた安田講堂、赤門、濱尾新総長の銅像、三四郎池不忍池があり「父泰治はここで先にノーベル賞を受賞された
南部陽一郎先生らと宇宙や物理学などについて議論していたんだな。」と思うと感無量になりました。南部先生は父親と同じ理学部であり一年先輩の友人だと聞いている。私の父の誘いで熊本県阿蘇郡長陽村(父泰治の田舎)にある”京都大学阿蘇火山研究所”を一緒に訪れられるほどの仲であったと聞いている。父泰治は病のために、その後は郷里熊本に帰り療養生活となり43歳の若さでこの世を去りました。志半ばで、理工学(航空機やロケットを飛ばす)への夢を断たれた父親の気持ちを考えると、悔しくて涙が出て止まりません。

       「父親の果たせなかった夢は残された我々が引き継ごう。」

と、弟と誓い帰路につきました。 さすが東京帝国大学です。正門には”菊の紋章”がありました。

 また、父泰治が東京在住時代によくお世話になった家に親戚の「
宮川宗徳(ムネノリ)氏(阿蘇神社21社家の一つである阿蘇の宮地木下、宮川家)」のお宅がある。宮川さんは、第2次世界大戦の戦後処理に来た、米国マッカーサが「神道は邪教として抹殺」しようとしたのを説得し、これを止めさせました。それにより神社は存続する事になり神社本庁が設立され初代事務総長に就任しました。また、神宮式年遷宮事業奉賛会の理事長となり神宮の安泰を図りました。宮川宗徳氏は内務省から文部省を経て東京市役所保険局長を努められ、東京都麻布盛岡町に有栖川記念公園を造園されました。

 マッカーサが行った戦後処理政策の一つに”農地解放”がある。これにより「長野家は南阿蘇の土地のそのほとんどを失っている」。祖父が軍人で要職(後に阿蘇在郷軍人会会長)にあり阿蘇地区をまとめていたせいか、審判では厳しい扱いを受けているようである。この土地さえあれば、私の父親は当時高価で手に入らなかった結核の特効薬”ストレプトマイシン”を買う事ができ助かっていたかもしれない。

 帰りには”浅草の観音様”へ立ち寄り、”日本文理大学医療専門学校生の国家試験合格祈願”もおこなってきました。

《夏目漱石と長野一誠》

 夏目漱石の小説三四郎のタイトルは東大内の三四郎池から付けられた。熊本出身の東大生の青春話である。漱石は熊本にもゆかりのある人で約5年間(弱)を第5高等学校(現熊本大学)の英語教諭として熊本で過ごしている。このあたりから小説三四郎が誕生したのだろう。また漱石の短編小説二百十日は阿蘇登山日記といわれているが、漱石が同僚教員とともに熊本から阿蘇へ、”長野一誠に会いに行ったときの話”だと言われている。

長野一誠⇒熊本3区選出の代議士で、第5高等学校(現熊本大学)設立時には多くの支援をしている。また、”宮本武蔵の
五輪書の刊行を企画した中心人物”である。

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