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自衛隊の思い出
夜間大学に行こうと思って入隊した
自衛隊
。結局、東京の大学には行けませんでしたが、ここ(自衛隊)は本当に楽しかったです。
C-1 輸送機 護衛艦 いかづち(雷)
朝はいつも6時に起き点呼で始まり
自衛隊体操
をやり、
早朝ランニング
となります。その後が朝食です。8:00が国旗掲揚だったかな?全員、国旗に向かって敬礼です。新隊員時代はこのあと教錬などがあり夕方まで続きます。新隊員教育隊でのことですが、やはりここでは厳しい教練についていけず毎年、脱落する者が出てきます。黙って、そのまま郷里に逃げ帰る輩が出てきますね。私や、同じ天理から入隊した連中は、訓練の厳しさより
お腹いっぱいに食べられるご飯のおいしさにびっくり(大満足)で、訓練など全く平気だった
のを覚えています。この年、私を含めて
5
名が天理高校から自衛隊に入隊しました。みんな優秀な奴で、その内の一人は、後に
自衛隊体育学校(オリンピック選手養成所)
に行き、現在は
2
佐(昔の中佐)となり幹部候補生学校の教官をやっています。私、いや我々天理同窓の誇りです。
Uti、良く頑張った!本当にうれしいぞ!
自衛隊では体力優秀者が重宝されます。幸い私は天理高校で鍛えられていたせいか体力には自信があり、新隊員教育隊でも体力測定
1
級
(
自衛隊の体力測定は上から特級、
1
級、
2
級、
3
級、
4
級、
5
級、
6
級、級外まである
)
で、体力優秀賞状までもらい、中でも中長距離走は頭抜けて速かったです。のちに配属された石川県の小松基地
(1500
人位の部隊だったかな?)では
2
番か
3
番の速さだったので、みんなからはいつも注目される隊員でした。石川県の駅伝大会では北國新聞に載り、基地の運動会ではいつもトップを走り目立っていました。ただ、悔しい思い出もあります。先輩に東北人(青森県出身)特有の粘り強い加○士長という方がいて、この人には何回走ってもどうしても勝てませんでした。結局、この人が新潟-東京駅伝の石川県代表になるし、自衛隊を辞めた後、新聞で見たのですが東京-青森駅伝の代表にもなっていました。もう一つは、当時石川県内には
1500
mで私より速いタイム(
4
分
10
秒前後だったかな)を持つ高校生(小松工業高校)がいて、彼は日体大に進学したとのことです。
クラグ活動ではラグビー部に籍を置き頑張ってきました。当時、このラグビー部の顧問は第
6
航空団の飛行隊隊長、愛媛県出身の○藤1佐です。この人はファントム戦闘機の現役パイロットであり稀に見る熱血漢、ラグビー部の皆は何かと優遇されたのを覚えています。入部するなり
「お前、天理から来たのか」
といわれ、直にレギュラーです。ポジションはフォワードの左フランカー。ラッキーと思い試合に出ましたが、社会人の当り(ブチかまし)は半端じゃなく、最初の試合(電電北陸戦)で脳震とうを起こしぶっ倒れ、記憶なしに顔面血だらけで試合終了まで走っていました(走っていたということです)。ラグビー部の先輩方にはとにかくよく可愛がってもらいました。練習が終わり、飲みに行く時にはいつも一緒に連れて行ってもらっていました。このときに、良いことも悪いことも・・・(笑)全て教えてもらいましたね。今になりますが、当時の先輩、本当にお世話になりました。同窓会をやりたいものです。このHPを見たらぜひ連絡ください!
また、ソフトボール部にも駆り出され外野を守った記憶があります。このときに見た自衛隊のソフトボールには衝撃を受けました。下手投げのピッチャー(ウィンドミル投法)がヘタな男の上手投げより速く投げるのです。このときからソフトボールの面白さにはまり、ラグビーの練習の合間にウィンドミル投法の練習をしたのを思い出します。今ではもう全然走れなくなりましたが、ソフトボールだけはまだうち(日本文理大学)の学生に交じって頑張っています。
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