大阪物療専門学校の思い出

平成23年4月より 大阪物療大学 開学! おめでとうございます!

大阪物療専門学校(診療放射線技師学校)


 昭和53年、自衛隊を退職すると同時に大阪にある大阪物療専門学校の夜間部(昼間は3年制、夜間は4年制)に入学しました。夜間部なので昼の仕事を探さなければいけません。考えたのは体力作りもできてお金を稼げるところでした。そこで考えついたのが”酒屋さんの配達”です。しかし、理想と現実は全然違います。さすがに体力はつきますが、夜の勉強ができません。専門学校という軽い気持ちで入学した私の考えが甘かったのに気付きます。この学校、留年も退学もあり定時制高校出身の私なんか死ぬ気で勉強しなければ卒業できない学校だとわかり、慌てて病院の放射線技師助手の仕事を探しました。幸い、免許なしでアルバイトできる病院が見つかりそこで仕事をするようになり、午前中は暗室にこもり技師さんたちが撮影したフィルム・カセッテのフィルムチェンジ、昼からはリハビリの手伝い(患者さんの介助など)などでした。試験期間中などはよく暗室の中にこもって勉強していた記憶があります。外の音が聞こえないし、慣れれば図書館より勉強しやすいところですよ。


                     
         X線撮影装置                    胸部X線写真


              
          3D-CT(頭部)        3D-CT(胆のう)        MRI-Angio(頭部)


 夜間部といえば、苦学生で同情を誘う感がありますが技師学校の勉強に関しては、断然、夜間部の学生の方が有利です。夜間の学生は毎日が病院で実習しているのと同じで、技師が撮影しているのをいつも横で見ているし、教科書に載っている機器や撮影補助具も知らず知らずのうちに覚えていきます。従って、昼の学生と夜の学生を比べると、成績が良かったのは夜間部の学生だったような気がします。

 その後、この学校を優秀な成績で卒業した弟の方(大学を出てからこの学校に入り、教員免許を持ち英語、フランス語はペラペラ、放射線取扱主任T種免許も学生時代にらくらく取得。値段の高い本は買わずに本屋さんで眺めて内容を覚えて帰る本屋さん泣かせの親父に一番近い男”)に物療から講師採用の話があり、弟が公務員(放射線技術検査所)だったためにお断りすると、同席した私の方に講師の話があり私がお受けすることになりました。

 「自衛隊上がりのやんちゃ坊主」であった私を、非常勤ではありましたが講師として採用し人間として一回りも二回りも大きくして頂き、生涯勉学の道へ誘って頂いた当時の田中祟宣校長および現田中博司校長には言葉では言い表せないほど感謝しております。この場を借りてお礼を申し上げます。

       田中崇宣先生、田中博司先生、本当にお世話になりました。


《叔父と男兄弟3人、大阪物療出身》
 
 私は4人兄弟の長男です。その中で上3人の男兄弟全てがこの大阪物療専門学校にお世話になりました(一番下の妹は熊本大学を出て東京都で教員)。物療では有名な放射線技師、長野3兄弟です。また、私の叔父(父親の弟)もここのOBであり、この叔父の勧めで働きながら放射線技師の免許が取得できるこの学校を選びました。叔父も、我々3兄弟も夜間部の出身であり、やはり夜間部に愛着があります。

 大阪物療の夜間部がなくなると聞いています。私たちのように経済的に恵まれなくても、自分の力で技師を目指すことができた有難い学校でした。自分の学び舎、夜間部がなくなることは残念でなりません。 しかしこれも”新しい大阪物療誕生への第1歩である”と自分に言い聞かせています。

* 平成22年10月 物療OB達の長年の夢であった 大阪物療大学 文部科学省より認可される!

 物療OBの一人として、今回大学化に向けご尽力くださいました関係各位に感謝します。
本当に、おめでとうございます。

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