ふるさと阿蘇

1.ふるさと阿蘇の山々

 
私の故郷は世界一のカルデラ火山、阿蘇山の内輪山南側中腹で、立野から高森まで走る
南阿蘇鉄道トロッコ列車の長陽駅、下田駅から垂玉温泉地獄温泉へ向かう途中にあります。

 近くには白川水源(名水百選)、一心行の大桜
カドリー・ドミニオン(TVでお馴染み、宮沢劇場のパン君やジェームス君がいます)阿蘇猿回し劇場阿蘇ファームランドアスペクタ・カントリーゴールド(ホテルグリーンピア阿蘇内)などの観光スポットがあります。

 また、京都大学阿蘇火山研究所や九州最大(82p)の南阿蘇ルナ天文台などの教育施設もあります。


      
     
南阿蘇鉄道(Wikipediaより)        立野鉄橋を行くトロッコ列車(南阿蘇鉄道HPより)


《春》
 春には桜やツツジやミヤマキリシマが咲き誇り、新しい牧草を生やすための”野焼き”が行われます。

          
        一心行の大桜             
ミヤマキリシマ
      (親戚、中山家の菩提樹です。)       
(Photo/MORIMORI All Rights Reserved)

一心行の大桜 
桜の種類:ヤマザクラ 推定樹齢:400年
 
名水で有名な阿蘇の旧:白水村にある「一心行の大桜」。この桜は天正8年(1580年)に島津氏との戦いで矢崎城(宇土郡三角町)で戦火に散った峯伯耆守惟冬(ミネホウキノカミコレフユ)の菩提樹とされています。妻と息子は故郷のこの地に帰り御霊を弔うために
一心に行をおさめたということで「一心行」の名が付いたとされています。最近新聞やテレビの夜桜中継などでマスコミで取り上げられる事が多く見学者が絶えません。



《夏》
 初夏は紫陽花(アジサイ)が見ごろで、避暑地として多くの人が訪れます。白川水源(白水)の水の美しさとおいしさはサントリー[天然水(阿蘇)]さんのおかげで、今や全国に知られるようになりました。

         
       
白川水源(白水)              初夏の阿蘇山


《秋》
 秋
には阿蘇山全体が”ススキの帽子”で覆われたようになり、絶景を眺めることができます。また、北向山などの紅葉も最高です。

         
     
     ススキ                   紅葉


《冬》
 冬は白一色の草千里でのスキー、古閑の滝、樹氷など見所が沢山あります。

      
     
冬の阿蘇山         古閑の滝          樹氷

     
    
草千里と噴火口          米塚と外輪山         草千里と肥後の赤牛      

 
この写真はプロの写真家、長野良市さんからお借りしています。”アースギャラリー


★ 垂玉温泉と地獄温泉 熊本県阿蘇郡南阿蘇村(旧長陽村)

 垂玉温泉(山口旅館)の露天風呂と石清水。毎年、行楽シーズンには多くの観光客、湯治客が訪れます。

 地獄温泉(清風荘)。 この日は日本文理大学の”久良係長”、”河野課長補佐”と三人で南阿蘇小旅行を敢行。 一緒に”仇討の湯”、”雀の湯”に入り、阿蘇を堪能してきました。
 
 次回は白水村の”一心行の桜”と”白川水源”を訪れる予定です。     平成22年8月7日


2.阿蘇神社と長野阿蘇神社、長野城(跡)


 私が生まれた場所は、南阿蘇村(旧長陽村)の長野城(跡)長野阿蘇神社のすぐそばである。生家は現在は取り壊されて無くなってしまったが、身内(長野一族)が今も多く住んでいます。
 
 わが家に伝わる系図によれば、長野家は阿蘇神社宮司の阿蘇家より分家しており

阿蘇大宮司(惟仁) ⇒ 長野志摩守(惟仁、三男惟高) ⇒ 数代不詳 ⇒ 長野越前守(惟久)

となっています。つまり、ご先祖は阿蘇神社の神官の血が流れているようです。

惟仁(コレヒト)のは阿蘇家が代々引き継ぐ名前、は天皇家”神武天皇”の孫にあたる健磐龍命(タケイワタツノミコト)から継承された名前です。



 阿蘇の歴史

 
阿蘇の歴史については以下を参照してください。
 「阿蘇の歴史」
 講師/阿蘇神社第91代 阿蘇惟之 大宮司


★ 「阿蘇神社」

 阿蘇神社の”楼門”は日本三大楼門の一つです。


★ 「長野阿蘇神社」

 無形民俗文化財 長野岩戸神楽(ながのいわとかぐら)
 
 熊本県阿蘇郡長陽村大字長野に伝承されている出雲系の神楽で、五月二十日、十月二十七日の長野阿蘇神社の春秋の祭典に演じられています。

                       
     阿蘇神社の家紋は”違い鷹”       長野家の家紋は阿蘇家と同じ”違い鷹”
    (Photo/MORIMORI All Rights Reserved)

ということで、この長野阿蘇神社は私のご先祖が神官を務めていたところとなんですね。

家紋は阿蘇家も長野家も”違い鷹”。勇猛な鷹の羽の家紋は戦国武将の家紋だということです。

 二拝、二拍手、一拝。   長野宣道 拝              平成22年8月13日 


★ 阿蘇家墓地 
 戦国武将”阿蘇家”の墓地です。 合掌!


 熊本の刀剣(22) 題字は星子熊本市長

 島津藩の大軍と戦う「太刀・伝大兼光」 
熊本日日新聞より

長野越前守惟久の大兼光
(ナガノエチゼンノカミコレヒサーノーダイカネミツ)
 天正七年(1579)春、全九州制覇をめざした薩摩の島津義久は、再び肥後攻めを開始、六万の軍勢が侵入した。宇土の名和顕孝、河尻重兼、隈本の城親賢らも敵ではなかった。阿蘇大宮司惟将大友宗麟と結んで島津に対抗。同九年には義久自ら肥後に乗り込み、次々に各城をおとした。十一年には柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の天下となっていたが、肥後では対島津戦が続いていた。しかし大軍には抵抗せず惟将も甲斐宗運も戦死、ただ阿蘇南郷七城の中で長野城と高森惟居の高森城だけとなっていた。

 長野城を守っていたのが長野越前守惟久。二十三歳の若武者であった。長野家は元々阿蘇家の別れで一門。この戦い(阿蘇合戦)の時長野城からは阿蘇本家の浜御殿へ警護に出てわずか二百余りの城兵がいただけで、薩摩の三千に立ち向かった。二日間激戦をくり返したが、家臣河島志摩守の裏切りで、ついに天正十二年(1584)十一月十二日石原迫にて戦死した。刀はこの時惟久が持っていたもので、石原迫の農民が預かっていた。しかしタタリがあるとして阿蘇山長善坊に奉納、越前守から三代目の作之允惟喬が請い受け相伝。昭和初期に八代市の垣田氏が入手した。

 刀は大磨上げで無銘だが、昭和十六年本阿弥光遜が大兼光と極め付けた。兼光は備前国長船住左衛門尉藤原兼光と切り、建武(1334)ごろの人。鍜えは片落ち互の目、小丁字乱れが交り直刀調。板目膚がよくそろい、樋映りがあって足葉も多く変化にとむ業物。数々の展覧会を飾った。拵えは半太刀造りで、鉄に金象眼の一作、柄は小ザメ着せで黒糸巻き、目貫は篭。

 ・長さ73cm ・中心22.2cm ・反り1.5cm 穴4


3.国学者、長野主膳

 
安政の大獄ではじめて歴史上に登場する長野主膳。江戸時代末期の国学者大老・井伊直弼の参謀。前名は主馬。諱は義言(よしとき)ですが、主膳は八代城より、長野阿蘇神社宮司、長野貢(惟清)の養子となってたという説があります。

≪長野主膳の故郷、八代城≫


 ふるさと阿蘇を偲んだ”主膳28歳のときの句”と云われています。

  
 「夏衣 着つつ程ふる甲斐なきは如何にぞ 阿蘇の山ほととぎす」

 辞世の句
 
 
  「飛鳥川きのふの淵はけふの瀬と かはるならひを我身にそ見る」


 滋賀県彦根観光協会 ⇒ 長野主膳屋敷跡(滋賀県彦根市)


・長野主膳を書いた本の紹介。
(1) 安政の大獄「井伊直弼と長野主膳」 松岡英夫著 中公新書
(2) 「奸婦にあらず」 諸田玲子著 日本経済新聞社
(3) 「井伊直弼」 吉田常吉著 日本歴史学会編集 吉川弘文館
(4) 「長野主膳の人物」 大沢平作 国民の友:第28号
(5) 「長野主膳」 川瀬教文 名家談叢:第4巻第2号
(6) 「長野主膳の素性」 中村勝麻呂 歴史地理:第10号
(7) 「井伊直弼をめぐる謎の人物‐長野主膳と村山たか女‐」 吉田常吉 日本歴史:第127号

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